日本人の仕事について

愚痴かなとも思うが、これまで経験したことを考え合わせると日本の働くということは何がずれているか分かってきた気がするので書いておこうかとも思う。

 

まずは日本人というか高齢者によくある特徴だが、目標を立てずに指示だけを出すようになってきた。これは目標を立てるとそこまでしか努力しないからだそうだ。しかし、そこから出てくる目標が達成に高すぎる上に抽象的だから、誰も具体的なイメージを持つことができない。例を挙げると

 

「お客様のためにおいしい料理を提供する」

 

である。これは一見、食べ物を提供する職業に就く人間にとって、唯一普遍な目標と考えられる。しかし、よく考えてみると、何も目標にしていない。お客様が高齢なのか若い人間なのか、男性なのか女性なのか、少人数なのか多数なのか。実際に仕事をしてみれば、お客様という言葉一つをとっても違いがあり、ターゲッティングを間違えば成果が出ないことは明らかであろう。当然おいしい料理の部分でも千差万別である。

 

では何故このようになってしまうのか。それは日本人の事なかれ主義というか、物事をはっきりさせない性質にあるのだと思う。はっきり男性一人向けにと宣言してしまうと、逃げ道がなくなるからである。常に逃げ道を用意しないと気が休まらないのに、理想を追うものであるから、このように目標になりえない目標が立てられる。

次に1000店舗達成という目標を立てる。これは先の目標っぽいものに比べると実数が使われていて具体的であるように見える。しかし、これも目標としては全く駄目である。それは、何のために1000もの店を出すかの根源的な理由がないからである。返して言うと、1000点を達成するためならどんな手段をとっても良く、不正行為が横行してもかまわないと言っているようなものだから。

 

それでも経営する人間、もしくは経営に近い人間にはあいまいながらも目標がある。文字には起こさないが、こうしたい、こうなってほしいといったものである。そしてそれは突然にその人たちの頭に浮かび上がり、作業指示となって飛び出してくる。

もちろんその突然の命令は上司の思い付きから出てくるので、全体像が説明されない。全体像を説明せずに命令だけを放り投げるのである。そのために部下はその作業について意味が分からず取り掛かることになる。そして、部下の人間がこれで完成であろうと判断されたところで報告がなされる。

それが上司のもやっとした目標に沿っていれば齟齬が起きないので問題なない。しかし、その結果が目標に沿っていなければ叱責の対象となる。指示=やるべき仕事ではないのだ。指示を受けた部下は、説明も受けられない上司のイメージを推測して作業を完了して報告しない限りミッションの完成はないのだ。

昨今の上司と若い部下とのすれ違いは、上記のような「分れ!」と「分るか!」との軋轢でもある。出世する人間が必ずしも優秀でないことがある。ひと昔であれば、相手を持ち上げる提灯持ちが挙げられたが、今は違う。この上司の持つイメージをうまく汲み取り、作業を完遂する人間が出世する世になっている。

 

しかし、目標のイメージを自ら類推し、仕事をする人間が出世すれば会社はおのずと成功するのではないかと思われるかもしれない。しかしそうではない。上司のイメージを類推して作業するということは、上司の考えを否定しないということでもある。一列に並んで水に飛び込むレミングの群れではないが、よくできた部下は海に向かって自殺しようとする上司を否定せず、寧ろ率先して後押ししていくのである。こんな人物が会社の上部に集まって来れば、自然と会社は傾いていく。

 

一方若い人間は、間違わない方法を教え込まれているので、その方法さえ教え込めば失敗しない。逆に言うと想像力がなく、事実は事実でしかない。事実から類推することができなくなってるので、知らなことに対してすぐにパニックを起こす。まあ想像力がないのは年を取った人間にも言えることだが。

 

以上から、現状は目標を立てられないで理想論の中から、適当に自分で考えた命令を何も説明しないで察しろという取り寄りと、その方向を疑わないでただひたすらに合わせていく中堅。そして命令に対して想像力を全く持たず勝手にミッションをクリアしていると勘違いしている若手であふれている。

 

経済状態の悪化は専門家のおっしゃるような大局的なものだけでなく、こういった現場での歪みによっても発生していることを書いておきたいと思う。

頭の中の整理(本離れ2)

 翌日に書こうと思ったがずいぶん開いてしまった。まあ見る人間もいないので問題はない。さて今日は本離れについて、本屋の成熟の点で書いていく。

 

 「本屋の成熟とはなんぞや?」であるが、これは本を売ったり作ったりする方々の問題意識の収束である。それは、インターネットが一般化し、情報・サービスの量や質が一気に上がった結果、望まれるレベル?上がったことに起因する。要は陳腐化の進む速さが一気に加速したのである。

 分り難いので推理物を例にとる。陳腐化がゆっくりであった頃は、

 

1 事件が起こる

2 探偵役が登場

3 事件を補足する出来事が起こる(次の殺人や、証人の出現など)

4 関係者を集めて犯人を指摘する

 

 こんな手順で進んでいた。場所や、キャラクターの味付けは様々だが、骨組みは変わらなかった。それぞれの読者は同じ骨組みを違ったキャラクター等で楽しんでいたのだ。

 しかし、情報が一気に入ってくるようになると骨組みが一緒であることが露見してしまう。本人が気付かなくても、情報の一つとして推理物がそのようにカテゴライズされてはいってくる。

 さて、ここで問題なのは「推理物に対するアプローチはこのまま、骨組みをそれぞれの読者が楽しめばよい」とのスタンスを取り続けられなくなったことだ。要は

 

「このままでは飽きられて、衰退する。だから新しい推理物を構築しないといけない」

 

 この考えは、意識が高いと言えばそうなのだろうが、これがまた本離れを加速させた。次の流れが始まるからだ。

 

1 基本への疑問、新しい形の模索

2 新しい理論の構築→元の骨組みの否定(否定とまでは言わないでも揶揄?)

3 アイデアの枯渇

4 突拍子もない方向へのアプローチ

 

 以上である。日本人の性質なのだろうか、一度古いと認定されたものが再評価されることはまれである(偉大な先駆者の作品を除く)。よって一度通過した理論は古いものとして、否定されてしまう。結果、突拍子もない方向に走ったもので、破綻していない作品が本屋に並ぶ。話題作は、初心者にとってみれば美術におけるピカソのような万人にとってはとっつきにくいものになってしまった。

 それは、日本中の美術館がこぞって抽象画を展示しているようなものだ。ピカソを自分で評価できるほどの審美眼を持てることは非常に素晴らしいと思うが、すべてがそれだけでは息が詰まる。理解するのではなく、リラックスしてただ美しいと思える作品もあるべきなのだろう。成熟したのは良いものの、「初心者、一見さんお断り」状態にあるのではなかろうか。

 

 ちょっと話がそれるが、筆者はよく同僚から何が面白いかと聞かれる。その時に私は、必ずその人の読者強度を聞くことにしている。その理由は上記の4つの段階のどこにいるか知らないとおかしな作品を勧めることになり、それが読書アレルギーを引き起こすからである。

 

 以上を総括すると本屋の成熟による本離れとは、最先端の読み手に対して受ける作品を売ろうとして、結局新しい読み手を遠ざけてしまっている状態のことである。ある程度の読み手でも呆れるような作品が増えているので、改善されるとは思えない。このまま本離れは加速するのだろうなというのが実感である。 

 

頭の中の整理(本離れ1)

(序)

 さて開始するわけだが、誰かに読んでいただこうという書き物ではない。

 最近ぐるぐると頭の中を巡っていることを外に出してすっきりさせたいのと、頭の中だけでは妄想に過ぎないからである。出したところで妄想に過ぎないのではあるが。

 

 毎日…というとハードルが高いので、頭からあふれた分を載せられればなと考える。本当にはみ出したものだから、ジャンルはごっちゃだろう。そのうち書いたものも整理が必要になるかもしれない。

 

〇初回ということで趣味に関係するグルグルを一つ。

 昨今「本離れ」が問題らしい。確かに出版社も本が売れなければ事業の継続が難しい。様々に考察されているが、金銭的な余裕とか忙しさが起因しているというものが多い。確かにそうかもしれない。私は自覚している活字中毒者なので、違うかなと思っても否定はできない。

 

 ただ他にも理由があるのではないかと思っている。それは失敗したくないという考えと本屋の成熟である。

 

 

1 失敗したくない

 スマホの普及で情報検索が格段にやりやすくなった。また、受け取る情報量も多量になり、玉石混合を判断する範囲が身近から全世界に拡大している。自身に有意な情報も大量に取得できるようになった事とともに、危険も身近になってしまった。昔は自分で歩けば検証できたものも、その範囲が広大に及ぶにあたり、検証を他人に委ねるようになってきている。私もそうであるが、何か始めようとするときに、ついその事を検索してしまう。なぜなら失敗したくなからだ。

 時間がないから?いや違う。無駄な時間は恥ずかしくなるぐらいある。どちらかというと自分が費やした時間に対してのリターンがマイナスであることが嫌なのだ。

 さて、ここで本離れに戻すと本を読むことはリターンを期待し辛いと言える。

 まず新刊本を購入すると、ハードカバーでは1000円を超える。スマホゲームなどが遊ぶだけなら無料であったりするので敷居は高い。

 読み終えない限り判断できないので、読み切る必要がある。途中をすっ飛ばすこともできない。また、長編小説ではぶつ切りで売り出すわけにもいかない。長編小説は序盤の苦しい場面を後半挽回する展開も多い。そのため、よほど信頼できる作家さんではない限りぶつ切りでは読むことを前半で諦めてしまう。昨今、投稿小説が脚光を浴びているのは、無料である事と、どこででも辞められる自由があるのが大きいのだろう。

 最後に読了後である。(読んだ自身が)評価できる作品であればまあ良い。また同じ作家の、ジャンルの本を読みたいと思うだろう。ただし、その結果が箸にも棒にも掛からぬものであったり、あまりに酷いものであった場合には反動は非常に大きい。逆にまたスマホで申し訳ないが、そういったゲームは掛けたものに対して大なり小なりのプラスが返ってくる。まあ最終的には(費用も時間も)掛け続けなければ期待するリターン(満足)が得られないと知って離れるのだが、短期的に失敗しないという意味では本は劣ってしまう。

 

 次項の本屋の成熟も上記を助長すると思うがそれについては、また明日書きたいと思う。