頭の中の整理(本離れ2)

 翌日に書こうと思ったがずいぶん開いてしまった。まあ見る人間もいないので問題はない。さて今日は本離れについて、本屋の成熟の点で書いていく。

 

 「本屋の成熟とはなんぞや?」であるが、これは本を売ったり作ったりする方々の問題意識の収束である。それは、インターネットが一般化し、情報・サービスの量や質が一気に上がった結果、望まれるレベル?上がったことに起因する。要は陳腐化の進む速さが一気に加速したのである。

 分り難いので推理物を例にとる。陳腐化がゆっくりであった頃は、

 

1 事件が起こる

2 探偵役が登場

3 事件を補足する出来事が起こる(次の殺人や、証人の出現など)

4 関係者を集めて犯人を指摘する

 

 こんな手順で進んでいた。場所や、キャラクターの味付けは様々だが、骨組みは変わらなかった。それぞれの読者は同じ骨組みを違ったキャラクター等で楽しんでいたのだ。

 しかし、情報が一気に入ってくるようになると骨組みが一緒であることが露見してしまう。本人が気付かなくても、情報の一つとして推理物がそのようにカテゴライズされてはいってくる。

 さて、ここで問題なのは「推理物に対するアプローチはこのまま、骨組みをそれぞれの読者が楽しめばよい」とのスタンスを取り続けられなくなったことだ。要は

 

「このままでは飽きられて、衰退する。だから新しい推理物を構築しないといけない」

 

 この考えは、意識が高いと言えばそうなのだろうが、これがまた本離れを加速させた。次の流れが始まるからだ。

 

1 基本への疑問、新しい形の模索

2 新しい理論の構築→元の骨組みの否定(否定とまでは言わないでも揶揄?)

3 アイデアの枯渇

4 突拍子もない方向へのアプローチ

 

 以上である。日本人の性質なのだろうか、一度古いと認定されたものが再評価されることはまれである(偉大な先駆者の作品を除く)。よって一度通過した理論は古いものとして、否定されてしまう。結果、突拍子もない方向に走ったもので、破綻していない作品が本屋に並ぶ。話題作は、初心者にとってみれば美術におけるピカソのような万人にとってはとっつきにくいものになってしまった。

 それは、日本中の美術館がこぞって抽象画を展示しているようなものだ。ピカソを自分で評価できるほどの審美眼を持てることは非常に素晴らしいと思うが、すべてがそれだけでは息が詰まる。理解するのではなく、リラックスしてただ美しいと思える作品もあるべきなのだろう。成熟したのは良いものの、「初心者、一見さんお断り」状態にあるのではなかろうか。

 

 ちょっと話がそれるが、筆者はよく同僚から何が面白いかと聞かれる。その時に私は、必ずその人の読者強度を聞くことにしている。その理由は上記の4つの段階のどこにいるか知らないとおかしな作品を勧めることになり、それが読書アレルギーを引き起こすからである。

 

 以上を総括すると本屋の成熟による本離れとは、最先端の読み手に対して受ける作品を売ろうとして、結局新しい読み手を遠ざけてしまっている状態のことである。ある程度の読み手でも呆れるような作品が増えているので、改善されるとは思えない。このまま本離れは加速するのだろうなというのが実感である。